13善通寺東院伽藍コース(2016年第3号)

善通寺伽藍
善通寺伽藍

 

千二百年の歴史

 

唐より帰朝した空海が大同2年(807 年)に創建したという善通寺は、戦国時代の戦火で一時焼失するものの、千二百年もの間、その法灯を絶やすことなく今日に至ります。善通寺の歴史を標す記念物や建造物は、千二百年間続く空海の仏法が、一般の信徒だけでなく朝廷や大名の帰依に支えられたことを示しています。その背景には、弘法大師信仰があるといわれます。

 空海の入滅後百年ほどして、東寺長者の観賢の奏上で醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られました。観賢が高野山奥の院にある空海の霊廟を開けると、空海は禅定を続けていたといいます。また、空海は高野山で入定する際に、弥勒菩薩のすむ兜率天に往生し、衆生を救うために、弥勒菩薩とともにこの世に出現すると遺言しました。弥勒菩薩が再びこの世で説法されるときに備えて、経典を土中に埋納する信仰が善通寺の背後にある香色山山頂で発見された経塚もその流れを汲んでいます。

 こうして弘法大師信仰が育まれ、また観賢が始めたという御影供などから空海肖像画(御影)に特別の意味が加わります。鎌倉時代には、皇族や貴族の要請により度々上洛し、模写されるとともに、善通寺には寺領地が寄進されました。大楠の元に祀られる五社明神は、こうした善通寺の寺領地の安穏を祈るために勧請した地元の神々です。

 弘法大師像には三種類あり、善通寺御影と呼ばれる図像には、讃岐の山中で修行する空海が釈迦如来に会ったという伝記が描 かれています。西行をはじめ、善通寺を訪れた真言僧は、この伝記が伝わる空海修行の地、我拝師山に登っています。鎌倉時代、後嵯峨、亀山、後宇多の三天皇(親・子・孫)は真言宗大覚寺の門跡となり、特に後宇多天皇は善通寺を大覚寺の末寺として庇護しました。境内にある三帝廟はこれを記念したものです。しかし、三帝による皇位の確執から南北朝の争乱が起こります。これを最終的に治めた足利尊氏は、争乱の戦死者を供養するために、諸国安国寺や利生塔を建立しました。善通寺には五重塔が建立されましたが、焼失したため形見として石塔が置かれました。

 また、若き空海が修行をし、釈迦如来と出会った四国では、今も諸国を行脚す る空海とともに巡礼するという四国遍路が生まれました。

善通寺東院伽藍に残る歴史的記念物

法然上人逆修の塔

足利尊氏利生塔

五社明神

三帝廟


弘法大師信仰を育んだ記念物

弘法大師像(善通寺御影)

釈迦が現れたという捨身が岳と行道


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